cosine

長原 實 みのる塾

[みのる塾]第23回

今日は、会社の経営に関わるお金の話をします。金融機関の悪口を言って、それが後に残ると痛い仕打ちをされると困るんですが、これは表には出ないですね、ハハハ。

 お金のことで言えば、私の自慢は、若い頃から、スッテンテンになった経験が3回あるということから話を始めます。1回目は、高校にも行かないで職人の道に入ったという話は、多分、この塾のはじめにしたと思います。職人ですから、3年かそこらやっていると、ほどほどの仕事が出来るようになるんですが、その頃はまだ請負制度というのがありましてね。請負で仕事ができるようになると、これはもう時間の制限なく働きます。当時働いていた工場では、遅くたって10時にはやめろ、とかなんとか言われていたんですが、私は金欲しさに随分働きました。だから請負で働けるようになると、結構お金になるんですよ、その時代はですよ。今は、そういう制度はないですね。

 そこで、私も30歳ぐらいになったら独立したいという思いもありましたから、お金を貯めていました。3年くらいで、少しばかりお金が貯まったんですが、その時には、僕は独立することよりも別な思いがあって、デザインの勉強を始めたんですね。デザインの勉強を始めると、どうしても旭川では何ともならない、中々勉強する場面がないものですから、やっぱり東京に行こうというんでね。その時、僕は当時の年収分くらいのお金を懐に入れて、1年くらい東京でいろいろ、まぁ、学校に入る、大学に入るということじゃないんですが、たまたま当時の通産省、昭和30年代ですから、日本の産業界にデザインをやらせようと、つまり新しい商品開発のために産業界を指導しようという大方針があったんですね。その通産省系の役所で、若者を集めてデザインの指導をしていたという所がありまして、そこに3カ月ほど入ったんです。まぁ1年くらい東京で暮らせるだろうと思って行ったんですが、実は東京に行ってみると何もかも新しいものばかりでね、めちゃくちゃ金を使ってしまって、3カ月ですってんになってしまったんです。気持ちはヨーロッパに行きたい、しかし懐は空っぽだ、仕方がないから上野から、また電車に乗ってトコトコと帰って来たという話は前にしたと思います。それが第1回目のすってんてんです。私は17の時に完全に独立しましたから、親からは一切援助は受けていないんですね。それが1回目のスッテンテンでした。

 2回目は、3年半ほどヨーロッパにいて、日本に帰って来るときに、帰りの旅費がなくて、モスクワ経由でシベリア鉄道に乗って帰って来た、これが昭和でいうと41年。私が31歳の時です。横浜にようやくの思いでたどり着いて、船から下りて、取り合えず熱海に親戚があったものだから、そこに駆け込んで泊めてもらって、翌日東京に出て来て、ヨーロッパで遣い残したお金、ドイツマルクとか、スイスフラン、フランスのフラン、イギリスのポンド…、遣い残したわずかなお金ですね、それを八重洲口の銀行に持って行って円に替えてもらったら、2万数千円。それが全財産でした。北海道に汽車でトコトコ帰って来ました。それが2回目のスッテンテンです。旭川に帰って来てすぐ役人になったというのは、とにかくすぐに給料がほしかったというのもあるんですけどね。1年半ほど役人をやりました。

 3回目は、会社を創業したんですが、約1年、1年半後ですか、作ったものがなかなか売れなくて、在庫は溜まっていくわ、ものは売れないわで、当時10人くらいいた従業員に給料も払えなくなって、女房のへそくりの郵便貯金までおろして給料の一部に充てたりしましてね。それが3度目のスッテンテンですね。

 明日食べるパンもないという貧乏を3回経験しているんですが、しかし、何とかなっていくんですね。周りが助けてくれたりとか、いろいろあるんですけどね、何とかなるものです。だから、私はお金に対して、それほど執着はないです。それこそ天下の回りものだと思っています。同時に、借金も恐くないですね、私は。いくらでも借金できるな、という感じがあるんですよ。会社をスタートするときの話を前にしたかも知れませんが、今から42年も前、私が33歳の時にインテリアセンターという会社を創業しました。その時も、私がヨーロッパから帰って来て、スッテンテンから役人を1年半くらいやっていたって、そんなにお金なんか貯まるわけがないですね。しかし役人をやっていても、進む先が見えない、学歴がないですからね。いつまでも役人をやっていてもしょうがないなという思いがあって、独立をしようと。ちいさな工場でも作ってね、小さな木工品でもコツコツ作ろうかなんてことを準備している時に、周りの人からね、お金が集まって来たんです。

 それは何かというと、私がヨーロッパに行って一番大きな刺激を受けたのは、北海道の木材がヨーロッパに大量に輸出されていた、それがヨーロッパで家具になって世界に売られていた、それを見たんですね。私が家具職人として、あるいはデザインの勉強をしながら、このことに一番屈辱を覚えたんです。北海道の、特にナラ材がヨーロッパでは最も上質な材料として、非常に貴重品のような扱いを受けているわけですよ。その当時、私は旭川で家具を作っていて、ナラ材なんてのはほとんど使っていないんです。多少は使っていたんですが、ナラなんて使いにくかったですね。硬いとか、狂いやすいとか、欠点ばかりが目に付いて使いにくかったんです。どこででもナラなんてあまり使っていなかったですよ。使われていたのは、鉄道の枕木とかね、子どもの頃は燃料に随分使いました。薪にしてね。そのナラ材が、ヨーロッパでは貴重品なんですよ。

 その背景を考えると、だいたい様子が分かってきたんですけれども、もともと文化の違いですよね。日本の文化は、木はたくさん使っているんですが、だいたい針葉樹です。スギとか、ヒノキとか、ね。針葉樹を主体にして家を建てているし、家具といっても大した家具は作っていませんから、その時代はまだ。椅子なんてほとんどないですからね。ですから、ナラとか、カバとかいう広葉樹材、ハードウッドはあまり必要としていなかったんです。だから輸出したというのは分かるんですが、しかし、当時1ドルが360円ですから、儲かるんです、輸出すれば。一番儲けたのは商社ですよ。輸出をやっていたのは三菱商事であり、三井物産であり、住友商事、ニチメン…、大手の商社が北海道の木材を輸出して儲けたんですね。それから、もちろんそれを供給していた製材工場、旭川にもその当時はたくさんありましたよ。製材工場も儲けてましたね。その風上にまた造材という山から木を切り出す人たちがいましたね。この人たちも相当儲けたでしょう。とにかく国有林を切り出すわけですよね。許認可権を持っているのは役人でしょう。当時の農林省。各地に営林局とか、営林署とか、現場を担当するのは営林署ですよね。営林署長というのは当時、3回転勤したら家が建つと言われていたくらい、とにかく裏金が入るんですよ、許認可権を持っているというだけでね。当然、ある一定の面積の中で、ここで何石伐採を許可すると、造材の業者はその2倍も切り出したという、当時の習慣があったらしくて…、ここには木材屋さん関係者は…、麻生さんは今日は来ていないね、ハハハハ。まぁ、祖父母の時代の話ですからね。そんな具合で、北海道の木材が一応計画伐採と言われていたんでしょうが、計画というのは名目だけで、無計画に切られましたからね。たった30年で北海道の広葉樹は枯渇してしまったわけです。だから今、切り出すものはほとんどありませんよね。

 私はそのことを業界の皆さんに何回も話をしていたんです。北海道は、そんなことをやっていちゃいけないんだと、資源を切り売りしてね。資源を切り売りして成り立つ経済なんてものは、長続きするわけがない。そんな植民地的経済の中で我々は胡坐をかいていちゃいけんのだと。いかに付加価値をつけるか、ということをやらなければいけないんだと。私はヨーロッパの見よう見まねで、そういう話をしていましたから、そのことに対して、お前の言うことは正しい、お前が独立するのなら金を出そうじゃないか、という人が現れて来たんです。オレが100万出す、オレは50万出す、という人が6人くらい出て来ましてね。これを使って会社を始めろ、というわけで400万のお金を用意してくれたんです。今の4000万円くらいでしょう。私も手ぶらでやるわけにはいきませんから、お金はないんですが、兄弟が多いですからね、親戚を駆けずり回ってなんとか100万円用意して、500万で会社を設立したのが昭和43年、1968年です。

 それで500坪ほどの土地を買って、そこに100坪ほどの工場を建てて、ある程度の機械を据えつけて、もちろん、その500万の金で足りるわけはなくて借金をしました。その借金というのは、私は金を借りれる信用なんて何もないんですよ。だから、出資してくれた人に社長になっていただいて、その社長の信用で借金が出来たということがあるものですから、私にとっては恩人の方々ばかりなんです。その時、私はまず、金を借りるには信用が大事だという、当たり前のことなんですが、初めて経験として身に付けるわけです。信用がなければ木材も買えないんですよね。その当時は、まだまだ手形がたくさん流通していましたから、今はあまり手形を切らなくなりましたよね。当時は、仕入れはほとんど手形で買っていたという、私も手形を切りましたけれども、私の名前では誰も手形を受け取ってくれませんから、ハハハ、その社長の名前でね。

 私は専務でやっていました。その社長という人は、もう亡くなりましたけども、懐の深い人でね。金を出した上に、社長を引き受けて、そしてまた手形まで切らせてくれるという、印鑑を預けてくれましたからね。そんなこと、今やる人はいないと思うくらい、いい時代だったんですね。松永さんという方でした。山室タネさんという方をご存知ですか。今の山室繊維の社長のお父さんですよ。繊維問屋です。その山室さんがなぜか、山室木工という会社を作って、松永さんという専務に預けていたんです。だから、その松永さんという方は、山室繊維の専務であるけどもかなり実権を持っていた人なんです。それなりに信用もあったということです。その松永さんという方は、結局山室木工の社長になることはなかったんです。専務のままで亡くなったんですね。多分、私が社長をお願いしますと頼んで社長になってもらった時に、自分は社長らしい仕事をやっていても専務だということがあったから、まぁ一回くらい社長をやってみてもいいか、と思ったかどうか分かりませんよ、これは推測ですけどね。とにかくそんな具合で、印鑑も預けてくれて、すべて私に任せてくれたという状況でした。切ってる小切手も手形も、●松永ユキチロウという名前ですからね。ああいうことは普通はなかなか出来ないんじゃないかと思うんですが。任せてもらったから、私だって裏切っちゃいけない、裏切れないですね、そういう人を。逆に、その気持ちで私は一生懸命やったかも知れない、そういう気もします。そんなわけで、人の助けを受けながら、恩義を受けながら、やって来たんです。結局私は、無一文で会社を設立できたということなんです。まぁ、時代もまた良かったのかも知れませんけどね。

 それからずっーと、私は借金が減ったことがないんです。ずーっと。まぁ、会長になってからは、会社の借金は少し減っていますけども、それは別のこととして、私が社長をやっている間は、次から次と借金が増えていきましたね。もちろん、バブルを経験してから、借金を減らすことに一生懸命になりましたよ。でも、それまでは常に成長路線ばかり考えていましたから、積極経営をやってきたんですね。私は基本的に、金融という、銀行、金貸し業というのは、利息さえ入ればいいと思っていますから、金はどんどん借りて使えばいいと。利息を払えない借金をしてはいけないけれど、元金は払えなくても利息だけ払えれば借金はすべしと、私は今でもそう思っているんですよ。こんなこと銀行には言えませんよ、ハハハ。言えませんが、今でもそう思っています。だから借金は恐くないんですね、私は。で、もちろん借金ですから、長期資金でも5年とか、10年とか、時間を切りますよね。確かにその通りなんです。その通り約定を書いて、この間に元利とも払いますよと、計画書はもちろん出しますよね。でも、その通り払ったことはあんまりない。で、別なもので借り替えながら、借り替えながら、こっちに返すとか、そういうことをずっとやって来ているわけですね。こっちの銀行から借りた金をこっちの銀行から借りて返すとか、こんなことをやって来て借金をどんどん膨らませて、事業を拡大して行ったということがあるんですよ。

 ただね、基本的なことは大事なんでね、やっぱり利益を出さなければだめですよね。利益を出さないで借金ばかり膨らませて行ったんじゃ、これは絶対にだめです。利益を出して、必要な税金も払った上で、経営内容は常に金融機関には明らかにしておく。まぁ、税務署よりも金融機関の方が私の会社の内容をきちんと知っているんじゃないかと、そう思うくらいです。金融機関には内容を明らかにしておきます。従って利益を出すということはとても大事なことですし、利益を出した上で内部留保をどういう形で残すかというのは時によって変わりますね。原材料が値上がりしている時には原材料で残しますよね。それから土地が上がっていれば、土地もいいですね。今は土地なんかで残してもだめですね。内部留保金というのは、その時、その時代によって変わりますから、現金が残っているということはあまりないんです。現金が残っていれば、借金を返しますよ、やっぱり。

 今多いのは、家賃、賃料が多いですね。販売の方に結構お金を使っていますから。東京はじめとして全国に10カ所くらい販売店があるし、アメリカ・サンフランシスコとか、ドイツにも販売店がありますから、そういうところの保証金とか賃料にかなり金を使っていますけど、こんなのもみんな借金なんですね。しかし、内部留保というのは、これもしっかり蓄えていかなければならない、そのためには利益も出さなければならないということです。その内容をきちっと分かっていれば、金融機関というのは金貸し業ですら、利息さえきちんと払っていれば、元金なんか返ってこなくたっていいんですよ、別に。今なんか、特に、貸出先がなくて困っているんですからね。銀行はお金が余ってしようがないんです。こういう状態は金融機関としては良いことではないですよ。結局は、国債に回すのが安心だというので国債を買ったりするでしょう? 銀行が国債を買うということは、民間の金を国が吸い上げるということですから、これだって経済的に良いわけはないですよね。私の金銭感覚、個人の金は別ですよ、経営資金としては、そういう感覚です。借金をどんどんしなさい、無駄遣いの借金じゃないですよ。確かに会社の資産として積み上げていく、信用を積み上げていくという意味では、借金は多い方がいいと思っています。

 無借金を自慢する経営者が結構いるんですが、私は、そういう話を聞くと、あんたバカじゃないかと、ハハハ、思うくらいですね。何でしょうね、昔の旦那衆というのは、北海道には旦那衆というのはあまりなかったかも知れませんが、旭川にもある程度そういう時代もあったのかな、問屋さんとか、商店の旦那衆というのは、無借金を自慢する人はたくさんいましたし、それからまた色町の遊びを得意とする人もたくさんいましたよ。それはそれで私は悪いとは思いませんよ。だけど、そういうのは自慢する話ではなくて、無借金で経営しているということは、経営者としてはむしろ能力がないんじゃないかと思うくらいのものでしてね。

 銀行を納得させるというのは、もちろんそういうことを露骨に言っちゃいけないんですが、経営の内容さえ常に銀行に分かりやすくしておけば、具体的に言えば試算表を毎月銀行に持って行くくらいでいいんですよ。それくらいのことをやっていれば、銀行というのは大体分かります、信用しますよ。だから、赤字の時は、赤字だということを明快に示すんです。赤字は隠さない。で、赤字になった時に、なぜ赤字なのか、自分が原因で赤字になったのであれば、これはしょうがないんですよね。社会的な影響で赤字になるというのは、世の中変化しますから、これはあります。例えば、バブル崩壊、リーマンショックですね。消費税が上がるなんていうのも、原因の一つですよ。つまり外的な要因で一時的に赤字になったというのは、銀行に明らかにした方がいいんでね。そこからどう脱却して、また黒字に転化させるかという、これをまぁリストラといえばリストラですからね。やっぱり、むしろ銀行と話し合うぐらいのことでいいんです。銀行と話し合うというのは、黒字にするためにどうすりぁいいんだとなんて話を銀行としたって、銀行はそんな話分からないんですよ。ただ、これをこういう方向に舵を切るためには、これだけの金がいるんだということは、これは銀行は分かりますよ。だから、赤字であっても、そういう積極的な意味の金だったら、貸してくれる。それは普段の信用なんですね。普段、経営内容を明らかにしておけば、それは分かってもらえるんです。

 ただ、銀行は非常にずる賢いですからね、複数の銀行が同じテーブルに就くことはまずないですね。個別交渉になる。私が、その個別交渉で一番苦労をした話をしますと、1991年、今からちょうど20年前、バブルが崩壊した時です。売上げが一気に35%落ち込んだ。当然、赤字です。50億円くらいあった売上げが、一気に35億円くらいまで落ちましたから。数億円の赤字に転落しちゃったわけです。その時に、どれだけ借金があったかというと、約28億円。会社としての借金のピークの時です。返済額が元利ともで毎年3億円くらいあるんですよ。そして、会社がすでに2億、3億の赤字ですからね。返済金と赤字とを加えたら、年間5億か6億足りないわけです。これは間違いなく倒産の道しかないんですよ。その時に私は何をやったかというと、取引していた銀行6行を1つのテーブルに座らせて話をしようとしたんです。協力を要請することですから、このままでは立ち行かないことは分かっていますからね。それで6行に同じテーブルに着いててもらおうと思ったんですが、それはとてもできない、銀行は絶対にしない。結局、個別交渉しかないわけですよ。

 私が銀行にお願いしようとしたのは、向こう5年間、返済額を10分の1にしてもらうことだったんですよ。だから、元利ともで年間3億円くらいの返済を、利息分がどれくらいあったかぁ、7000万か8000万円だったかなぁ、その利息はしょうがないけど、元金の返済を約定の1割に減らしてくれと。これは無茶苦茶な話なんです、実は。無茶苦茶な話なんですが、銀行は、最終的には個別交渉しながら、6行全部が飲んだんです。なぜ飲んだかというと、借金の額が大きかったからですよ、ハハハ。28億円の借金を6行でしょう? 平均に割り算したって、だいたい分かるでしょう? 今ここで倒産させてしまえば、どれだけ損をするかというのは銀行は分かるわけですから。今ここで全部損をするか、利息は払うんですから、元金の返済を1割にして5年間我慢をして、その後でまた次の相談をしますと。5年間は10%にしてくれと。やっぱりね、時間はかかっても貸した金は戻って来た方がいいんですよ、パーになるよりは。私もそれは読んでいるんです。どっちが得かと考えた時に、銀行の経営者もこっちも、考えることはそう違わないんですよ。どっちが得かと考えるんです。私は当然5年間で、こうやってこうやれば黒字になりますと説明をしているんですから。その通りになるかならないかは、やってみなければ分かりませんよ。しかし、それを説明をした上で、5年間という時間を下さいとお願いしているわけですね。約半年かかりましたけども、全部の銀行が私の条件を飲んだということがありました。

 あれが会社にとって一番大きな曲がり角だったでしょう。なぜ飲んだかというと、私は、銀行に向かって大威張りでものを言ったわけじゃありませんよ。あくまでもお願いですから、謙虚に、低姿勢でお願いしたし、地域のことも話をしました。雇用のことも話しました。バブルがこういう状態になって、倒産したらどうなる。あの当時、300人くらいいましたからね、人員が。そういう地域的な問題も、旭川家具の全国の業界に対する立場がありますね、そういうことも話をしたし、もちろん地域の仕入先もありますからね。そういうことも全て、話をしました。で、この会社は潰してはいけないんだ、潰したくないんだと。私はどうなってもいい、くらいの話はもちろんしていますよ。あくまでも保身の話ではなくて、地域の問題とか、他人のためにとか、従業員を守りたいとか、そういう話を丁寧にしました。そこで威張っちゃいけないですよ。あの時ぐらい、私自身が覚悟を決めて謙虚になったことはなかった気がします、ハハハ。覚悟を決めてね。

 そこから言えることは、思いというのは、強ければ強いほど、それを相手に分かってもらうことによって、理解してもらえるということですよね。いくらかでも私欲、自分の保身的な何かがあれば、それは理解されにくいかもしれない。自分を捨てて、本心から自分を捨てて取り組めば、周りは理解してくれる。金融悪者説を唱える人もたくさんいます。雨が降ったら傘を取り上げるじゃないか、とね。私は決してそうじゃないと思うんですよ。もちろん、金融だって個人差がありますよ。その時も、特に大手銀行の現地の支店長とは相当なケンカをしましたね。というのは、大手銀行というのは、あくまでも支店なんですよ。支店長は自分をかばいたいんです。だから、自分の立場でものを言う。地域の問題とか、雇用の問題とか、そういうことを言ってもあまり理解できない。支店長といえども、ただのサラリーマンというか、自分の立場しか考えていませんから、ケンカになっちゃうんですよ。お互いに、地域のためにとか、その周辺のことを全体に考えられる人ならば、私は理解してもらえると思って話をしているわけですから。大手の出先の支店長というのは…、これももちろん個人差があると思いますよ、その時に対応した人は全くそれを理解しようとしなかった。そういうことがありました。

 まぁ、誠心誠意対応すれば通じる。私は本来、お金にそれほど執着していませんから。貧乏を経験したということもあって、金はいつでも何とかなると、今でもそう思っています。私は今、会長の立場になって、社長と対立するのはそこのところが結構あるんですよ。ここで社長のことをあまり言っちゃいけないけれど、社長はその点ではすごく臆病ですね。今でも、数億円の借金、私が社長ならやりますね。それは必ず元は取れる、という前提ですから。長期にものを見ていなければいけないんですよ。世の中、結構変化するからね、長期を見通せというのは中々難しいですよ。今回の震災のようなことを見通せるわけはないんですけれど、しかし、今現在の立場で考えるとね、つい3年前のリーマンショック、これも予測できていないし、今度の震災ももちろん予測できてはいません。

 だけど、今、消費税が二桁になるというのは、予測できますよね。いつなるか、ということです。それは政治の動きですから、今は震災の復旧復興が中心になっている分だけ、消費税引き上げの動きはちょっと薄らいでいるけれど、くすぶっているだけで、間違いなくすぐに出て来ますよ。私の見通しでは、恐らく10年くらいの間に、消費税が20%になる可能性がある。ここ2、3年のうちに10%にはなるでしょう。そこから段階的に10年後くらいには20%になるだろうと。その時の消費の構造を考えた時に、さて、どうかということです。特に家具というのは、これは生死に関わる問題じゃないんですよ。だから、消費税が20%にもなったら家具を買う人は著しく減るということは予測されますから、マーケットはさらに縮まりますよね。その時に、どう生き延びるかということがあるんですが。もちろん、いろんな対応が出て来ますから…。

 家具のことで話をすれば、全国の家具製造業がどんどん倒産し始めたのは、1995年なんですよ。95年から、そうですね10年間で、日本の家具製造業は4分の1になりましたね。今、25%しか生き残っていないんです。一方で、中国から大量にものが入って来ていますからね、だからまぁ、空洞化したということになるんですが、その分だけ市場が二極化して、中国・ベトナム製というのは非常に安いところで大きな市場を作っています。それは大体、大型の販売店、ニトリとか、IKEAとか、その他あります。そういうところがマーケットをほとんど支配していますからね。国産はその上の方にいるんです。マーケットを三角形で表したとすれば、ボトムの部分で約40%くらいかな、大げさに言えば。約40%ぐらいの市場は中国・ベトナム製です。国産でやっているのは、三角形の上の方、全体の10%か、そのくらいですよ。量的な判断で言いますとね、金額で言えばもう少し違いますけど。

 で、その上の方と下の方の間に空間があるんですね。二極構造というのはその通りなんですよ。一方で中国も段々コストが上がって来ています。値段も上がって来ています。品質も少しずつ良くなっているでしょう、多分。我々国産のメーカーも、少し下に下げよう、平均単価を少し下げようと努力しています。だから、中間の空間部分は少しずつ縮む傾向にはあるんですが、しかし、我々がどこまで下げられるかというのは、自ずから限界がありましてね。賃金が下がるわけではないし、今度また電気料金も上がる要素がありますね。そして原料が上がります。資源がそれほど多くありませんから。ほとんど輸入に頼っていますからね。今のところ、その面で言いますと木材の輸入も円高のお陰でそれほど極端な値上がりはありませんけどね。円が安くなれば、原料の木材が当然値上がりします。円高と円安、どちらがいいかと言うと、フィフティフィフティですね。輸出も、家具の完成品の輸出というのはほんのわずかですよ。ほかに輸出している会社はほとんどありません。国内でも、私どもの会社は輸出していますが、これも全体から言うとわずかな金額です。円安になって木材が値上がりする方がむしろ負担が大きくなるかも知れません。

 でもまぁ、マーケットの構造の中で、中間の空白部分をこれから途上国と国産との間でせめぎ会うことになるでしょう。我々も消費税が上がって行くという状況、少なくても当面10%になった時のことを想定するんですよ。その時に、マーケットをどこまで下げれるか、平均単価をどこまで下げれるか、これが勝負になるんです。そのためには、今、借金をしててでもコストダウンのための設備投資をしておかなければいけない。というのが私の考え方です。社長は、これ以上借金は増やすことはできない、借金が恐いと考えているわけですよ。これは世代の違いか、経験の違いか、分かりませんけど。私は借金なんて出来る時に、出来るだけしておけばいい、元金なんか返さなくていいとは言わないけれども、腹の中ではそれくらいのことを思っているわけです。利息さえ払っておけば、コストダウンの利益の方がもっと大きいよと。

 利息なんて今安いでしょう? 最近の合理化のための設備投資ですと、いろんな制度資金をうまく活用すれば平均金利1%の金が使えますよ。安いものだと0・5%の長期資金がありますからね。例えば、政策金融公庫、日本政策金融公庫はそういう金が結構あるんですよ。それから、商工中金あたりにもありますよ、そういう0・5%という資金が。それと、普通の信用金庫なんかの資金と混ぜ合わせて使えば、平均で1%くらいで資金調達はいくらでもできますよ。1%だったら、1億円借りたって年100万でしょう? それを合理化のために使うんだったら、合理化効果の方が遥かに利息よりも大きいですよ。私は、そういう考え方をするんですね。元金は10年の約定で借りたとしてもね、20年、30年かかって払えばいいんです。どんな払い方でもありますから、やり方としては。ただ、さっき言ったように、経営内容は常に貸し方に対して明らかにしておきなさいと。そして経営が何を考えて、今何をやろうとしているのかということも明らかにしておく、よく説明をしておく。要するに、貸し手と借り手の間に疑心暗鬼をなくせば、お互いに信頼関係にあれば、借金なんてのは全く恐くない、そう思っているんです。なるべく利益を出して、税金も払って、内部留保も蓄える、ということでしょうね。内部留保というのはとても大事でしてね、自慢するつもりはないんですが、今、私どもの会社では今年の売上げぐらいの内部留保がありますよ。お金を持っているわけではないですよ。何かになっているんですよ、それは。これまで40年かかって積み上げてきたものですよね。

 ■工藤 それは、どんな形で内部留保されているんですか?

 それは、土地、建物、在庫商品、店頭に並んでいる商品だとか、各地の販売店の保証金になっていたり…。最近ちょっと心配なのは、土地が簿価割れして来ましたね、土地の値下がりで。30年、40年前に買った土地はまだ簿価割れしていませんが、20年前に買った土地は完全に簿価割れですよね。それはも含み損です。だから、土地はあまり下がってほしくないと思いますが…。まぁ、お金というのは使われていて価値があるわけで、銀行に寝せておくようなものでもないし、会社で別に投機的な金を使っているわけでもないし、何かかにかに化けているんですよね。資本金1億6000万ですが、会社が使っている総資産、貸借対照表に出てくるトータルは30億ぐらいですから、その差額というのはほとんど内部留保金ということになりますよね。それがモノに化けているだけで、金ではないけども。まぁ、経営するというのは、特にお金に関しては開き直りが必要じゃないですか。開き直って威張っていてはダメですよ。謙虚に、ハハハ、腹の中に納めて。要するに経営者の覚悟としては、開き直りでしょう。借金が出来る時に借金をしておけばいいと。無駄遣いはもちろんいかんですよね。事業展開するというのは、やはり金がなければ出来ませんからね。

 今、私がやろうとしているのは、消費構造の二極化の中の中間の空洞部分、それを埋めるために、商品の値段を2割引き下げようと思っているんですよ。2割引き下げるためには、今までの得意先がありますから、この人たちを裏切っちゃいけない。値段を下げたら裏切っちゃうことになりますから、2割引き下げるために全く別ブランドを今、作ったところです。知名度も何もない、新しいブランドです。名前は「ippon・いっぽん」というんです。一本締めの「いっぽん」です。私が言っているのは一本道の「いっぽん」なんですけどね。「ippon」という名前の店を来週、6月4日に東京でオープンします。これは1号店で実験店舗なんです。何をやるかというと、完全な製造直販店です。ディーラーさんに卸すんじゃなくて、直販するんです。直販するだけで、10%くらい値段を下げることが出来ます。一方で、工場の合理化をやってね、来年あたり少し大きめの投資をやろうと考えているんですが、そこでまた1割くらいコストを下げたいんです。自家発電もやりたいと思っています。合わせて2割、コストを下げようと。

 その下げた分を別ブランドで新しい顧客を開拓する。今まで自社の顧客になっていなかった、もう少し所得の低い層と言いますか、新しい客層を開拓しようということです。商品も全く別のものを導入して、新しい名前で、新しいスタッフでやろうと。1号店を今年出して、来年から5カ年計画で10億円くらいの売上げ、新たな売上げを作ろうと考えています。そのために店が幾ついるか。私は5店舗くらいで10億やりたいと思っているんですよ。つまり1店舗2億の売上げがなければならない。それが出来るかどうかは、やりながら考えていきますけれども、もしかしたら10店舗くらい作らなければならないかも知れません。10億の売上げを作るためには、いろんな方法を考えますから、まぁ5店舗か10店舗か、その間でしょう。どういう地域に作るかというのも、だいたいイメージの中にはあるんでが、取り合えず東京で始める。首都圏で、少なくても3店舗か4店舗つくらなければならないと思っています。

 それは何をやろうとしているかというと、つまり、製造業というのはみんなそうなんですが、究極は作り手と使い手が直接つながることなんですね、結局は。そこへ向かわざるを得ない。今のグローバル化という経済構造の中で、しかも情報機器が著しく発達していますから、使い手と作り手が直接関わることが非常にやりやすくなったし、またそうしなければビジネスが成り立ちにくくなっている、ということだと思います。中間を通していると、どうも作り手の意思が使い手にストレートにつながらないでしょう? 百貨店であれ、どこであれ、ストトレートにつながらない部分があるんですよ。使い手の意思も、お店を通して我々作り手に入ってくると、赤が黄色になったりして伝わって来るじゃないですか。人の噂と同じようなもので、変わって伝わるんですよ。そういう状況の中では、これからの時代には勝てないんじゃないかと。

 今はもう、アメリカでもヨーロッパでも、家具はほとんど受注生産なんですよね。ヨーロッパも、ほとんどオーダーメイドになりました。だから、3カ月くらい待ってくれるんですよ、お客さんの方は。国内でも、私は2カ月くらいは待ってくれる仕組みができるんじゃないかと思っていますけどね。その代わり、その相手方のためだけのサービスをするわけですよ、中間を通さないで。だから、その間の関係が密接になるでしょう? 特に輸入品と国産の価格が接近して来た時に、なおさらそれが必要になると思うんですよ。住宅、建物だって同じでしょう? 以前からそうですよね。建主と建築業者というのは一対一だものなぁ。

 ■菅原 中国産と国産の価格が近くなったら、それが僅かな差だったら、やはり国産を買いたいですよね、絶対に。

 そうなんですよ。これは一時的な現象なのかも知れないけれど、今、ナショナリズムでしょう? そして、最近は、ヨーロッパからも、韓国からも来る注文が増えているんですよ。それは大震災の後の日本を助けたいという、言葉が付いて来るんだよ。これは甘えちゃいけないけれど、そういう状況もビジネスの中であるんですよ。増える理由がないのに増えているというのは、そういう理由があるんですね。国内は完全に落ち込んでいますよ。例年に比べたら、去年、一昨年に比べても、国内は1割くらい減っているんですよ。海外が少し増えていますから助かっていますけどね。まぁ、助かるほど増えているわけじゃないけれど、海外からはそういうオーダーがあるということです。

 ■菅原 海外で売る場合、日本の定価と同じなんですか?

 いえいえ、日本の1・8倍くらい、日本で10万円くらいの椅子が、18万円で売っています。運賃もかかるし、通関手数料がかかって、向こうの利益が上乗せされると、それくらいになりますよ。抑えたもので1・5倍くらいですね。特別なものは、むしろ海外は利幅を多くみてもらえる、というのがあるんです。オーダーメイドで、一品づくりで、特殊なものを作ればね。というのは、向こうにそういう業者があまりいないんですよね。ヨーロッパというのは、産業革命以来、工業化工業化と、工業化が進んだ国でしょう? だから我々のような、工業化よりも工芸化の方、職人的な技を重視するモノづくりの思想というのは、希薄ですよ。日本人の方がまだそれを持っている。職人的なモノづくり。それを向こうが評価してくれるというのがありますから。確かにね、そうした職人的なモノづくりを言えば、日本人の方が遥かに優れています。ヨーロッパよりも、アメリカよりも、日本人のモノづくりというのを海外が認めているんですよ。自動車でもそうじゃないですか。部品を日本で作るというのは、細かいところで、職人的な技が生きているんですよ、日本ではね。それに対する信頼があるから、日本の部品メーカーは地方の中小企業でもまだ生き残っているところが多い。小さくても海外に市場を持っている中小企業があるでしょう? それは日本人特有のモノづくりの特性でしょうね、多分。

 それは家具にも、あるんですよ。我々が今やっている仕事というのは、そうですね、1950年代、60年代のデンマークみたいなことをやっているんですよ。それをかなり機械化してね。当時のデンマークは手作りでそれをやっていました。北欧の家具が一番素晴らしかったのは、その1950年代、60年代です。その時代、なぜそうした素晴らしい家具が北欧で作られていたかと言うと、まず一つの特徴は、産業革命そのものを北欧の人たちはあまり受け入れていないんですね。ドイツとかフランスとか…、ドイツなんかは、まさに産業革命の道を走りましたからね、そういう国なんですけども。北に行くと、そういうことよりもむしろ工芸的なモノづくりの方に発展したんですよ。それは、やはり気候風土のせいじゃないでしょうか。冬が長くて、暗くてね、室内で暮らす時間が長いからね、インテリアというのは非常に温かい、カラフルなものを整えていった、ということがあるから、工芸的な産業が発達した、ということが言えると思います。

 それは原料があったから可能だったんです。その原料は何かといえば、ほとんどが東南アジアなんです。木の種類で言えば、チークだとか、ローズウッドだとか、ウォルナットとか、マホガニーとかね、南方で採れる材料なんですよ。それは東南アジアがみんな植民地だった頃、フランスだとか、イギリスだとか、オランダとか、当時いわゆる帝国主義の国々ですよ、それが植民地から資源をどんどん収奪して行ったから北欧で、そうした材料を潤沢に使えたという時代なんですね。それが、70年代以降、東南アジアの国々が独立しちゃうと、資源なんかもう売りませんよね。だから結局、材料がなくなって作れなくなった。自国にある木というのは、大体白樺と松くらいですよ。ヨーロッパトウヒという松、きれいな木ですが高級な家具にはならないんです、白樺もそうですね。そういう家具だけは残っているけれども、今ヨーロッパでかつての家具を作ろうとしても作れません。

 そこで、彼らもいろいろ考えて、1970年代、80年代までは、タイとか、マレーシアとか、インドネシアとかに工場を作って、職人を指導した経緯はあるんです。しかしねぇ、南方の人は、北の人と同じセンスは持てないですね。大ざっぱ、どうしても大ざっぱなんですよ。だから、似て非なるモノしか出来ない。とうとうデンマークもスウェーデンも、東南アジアで家具を作ることを諦めましたね。原料のあるところに行って、工場を作ろうとしたけども、結局は諦めましたよ。同じモノは出来ないんですよ。それはやっぱり、民族の違いと言うか、気候風土の違いと言うか、そういうものなんですね。日本人もそちらの方で満足できる人、安ければいいという人はいるんだけども、やはり満足できない人、高くてもやっぱり国産がほしいと言ってくれる人がいるから、我々はまだ成り立っているんですけどね。まぁ、中国も段々レベルを上げて来るし、賃金も上がって来るから、確かに値上がりして来るんでしょうけど、じゃあ中国製が我々と同等のモノ、あるいはそれ以上のモノを作れるかと言うと、まぁ…、この先30年、50年経っても、多分、出来ないだろうと思います。これもやはり民族の問題、じゃないでしょうか。

 お金の話をすることになっていましたが、私はそれほどお金に対して、豊富な知識があるわけでも何でもないんですが、お金なんてものは回りものだと。無ければ無いように何とかなると。本当にスッテンテン、明日のパンも買えないような経験を3回していると、そうなるんですよ、ハハハ。これは、私の全く個人的な感覚かも知れませんが、今でもそう思っています。無駄遣いで借金しちゃいけないけれど、きちっとした金ならば、借金が出来る時にした方がいいと。会社が赤字になったら、中々借金は出来ませんからね。まだ黒字のうちならば、借金もできます。でも、赤字になっても、それをきちっと立て直す、再構築して立て直すプランがしっかり出来れば、それはそれでまた新たな金がちゃんと出て来ますから。計画通り行くかどうかというのは、何だってそうでしょう、やってみなければ分からないでしょう、ねぇ。初めから結論が出ているなんてことはないですよね。一生懸命やるだけですよ。一生懸命やれば、知恵も出てくるし、いい加減にやっていれば愚痴が出る。一生懸命やっていれば知恵が出ますよ。

 皆さんもそれぞれ経営者ですから、夜ベッドの中でいろいろ考えることもあるでしょう。ベッドの中で考えているというのは、ろくなこと考えていない場合も多いけれど、でも、たまにはひらめくこともあるでしょう? そういう時には、起き上がってメモすることですよ。私も何回かありますよ。たいていデザインのことなんです。なにか新しい椅子をつくらなきゃいかんなぁ、と思っている時に、四六時中頭から離れないんですよねぇ。それで1年も2年も経ってしまうこともあるんですが、ある時、夢に出てくることもあるんですよ、これは。その時に、何か残しておかないと、朝まで待ったらだめですよ、忘れちゃうから、ハハハ。

 皆さん、それほどお金に困ったことはないかも知れませんね。だいたい二代目、三代目ですから、豊に育って、時代もそうだしね。私のように戦前生まれで、戦後を経験しているとね、本当に子どもの頃の暮らしの貧しさというのは、これまた…。でね、私は今度の震災で思いましたよ。3月11日の震災から1週間くらいのテレビを観ていて、避難所の暮らしというのは、悲惨でしたよね。水も食べ物もない、電気もない、もちろん電話もない、ないないづくしですよ。そんな中で、あの人たちが何とか助け合って暮らしていた。徐々に道路が復旧したりして、支援物資が届くようになったけれど、特に最初の1週間というのは、すさまじい映像を観ましたね。その時に思いましたよ。これは私の祖父母の時代、つまり100年前の北海道開拓の時代はこうだったんだと、私、あれを観て実感しましたよ。祖父から話としては聞いていたけれど、映像としては実感していなかった。

 あのテレビを観てそう思ったんです。北海道に来て、笹やぶを焼いてね、そして鍬で笹の根っ子を掘りながら起して、まずソバを蒔いた。ソバは、3カ月か4カ月で収穫できるんですね。まず、食べ物を確保するために、まぁ野草とか山菜とか、そういうものはもちろん食べているんですが、穀物として食べたのはソバが最初だと。で、ソバを食べながら、木を切り倒して、それで家を建てたりしたわけですよね。今度は、根っ子を掘って、それを人力でやるんですよ。その頃は、馬もいなかったそうだから。それは大変な作業だったでしょうね。それで、とにかく田んぼを造ったんですよね。小さな田んぼを。米を作るようになるまでに、3年かかったとか、4年かかったとか聞きましたけどね。とにかくご飯を食べるのに、何年もかかって、そうやってやって来た。最初の1年、2年、3年という時間は、ああいう生活をしたんだと思うと、涙が出て来ちゃうんです。祖父母の顔を思い出して。だから、その分だけ、この北海道の島を大切にしなければいかん、この北海道をものすごくいとおしく感じていますよね。

 それでね、大分後になってからですね、坂道に石碑が建っていたというの、「ここより下に家を建てるな」という石碑があったんですね。あれも感動ですよねぇ。その50㍍下まで津波が来たというんでしょう? それで、私は思ったことがあるんですよ。さっき話しましたが、北海道の広葉樹をたった30年で切り潰しちゃったと、そして売っちゃったんですよね。それを収奪して行ったのは、だいたい日本の商社。それを許可して、騙されながら許可して懐を肥やしたのは役人だったりするわけですよ、ハハハ。で、それを繰り返しちゃいけないと。これから北海道で伐採してね、我々が建物とか、家具になる材料を得るには、まだ50年、100年かかるんですよね。そういう間違いを繰り返しちゃいけないということで、私は、石碑を造っているんです。今から4年前に作った、「旭川家具づくり人憲章」というのがあるんですよ。見たことないですか? 今度差し上げましょう。「旭川で家具を作る職人達はこれを守れ」という5カ条の憲章があるんですよ。それを石碑に彫ろうと考えたんです。

 我々は10年前から、毎年、家具づくり人、職人達が集まって植林しています。毎年、2000本から3000本ずつ植えているんです。その植えている場所に、石碑といっても、そんな立派なものではないけども、それを今、作っているんです。この土地で、数百年サイクルで、木を育てながら、家具を作り、その家具を修理しながら大切に長く使いながら、また次の木が育つのを待つという、この数百年のサイクルをイメージしたものなんですよ。つまり、普遍的な家具生産地でありたいという願いを込めたものなんです。それはたった数十年前に、北海道の広葉樹を切り尽くしてしまったという間違いを繰り返すな、という意味なんですけどね。それを石碑にして遺そうと、そんなことをやっています。もちろん、そこに誰の名前も書くわけじゃないですよ。言葉だけ、そこに残そうと。数百年前に、津波の石碑を建てた人がいるというのをテレビで観て、えらく感動しましてね。遅くても6月いっぱいには出来るでしょう。興味があったら案内します。

 我々がミズナラの木を植えているという話ですが、多分、ずっと続けていくことになると思うし、続けていくためにも、その石碑が必要なんですよね。人間、忘れちゃうんですよ、どこかでね、何かの理由によって、そういうことを忘れちゃうということがあるから。北海道のミズナラというのは、独特のいい味を持っているんです。楢、オークというのはアメリカにもあるし、ヨーロッパにもあるんです、種類としては。でも北海道のナラは、独特なんですよ。この気候風土で育ったミズナラというのはキメが細かくてきれいなんですよ。それを残したいですね。ここでしか育たないナラなんです。特に、大雪山の西側が大事なんです。大雪山の西側というのは、つまり季節風でも何でも、大気は西から東へ常に移動するでしょう? そうすると大雪山にぶつかって、そこでたくさん雨を降らせるから、旭川って雨が多いですよね。十勝に行ったら、いつも晴れているでしょう。こっちは雪や雨が多いんですよね。その中で、寒さとか、雨とか雪とか、気温と水分とがうまく、ナラ材に合っているんじゃないでしょうかねぇ。そう思うしかありません。だから、ヨーロッパとも、アメリカとも違うナラが育つというのは、やっぱり気候風土でしょう。これを絶やしちゃいけないんですよ。秋になったら、ゴルフをしながらドングリを拾って来るんだから。そのドングリから育てる苗もあるし、美瑛の竹内さんっていったかな、育苗の会社がありますね、あそこから買って来るのが大半ですが、自分たちで育てた苗も植えるんですよ。  数百年のサイクル、木を育てることから始まるその数百年のサイクルを永遠に続けたいと。それが「一本道」だと。「ippon」という店を作る、その理由でもあるんですよ、ハハハ。この店では自社製品も売るけれども、地元のクラフト作家とか、小さな工房、一人とか二人とか、少人数でやっている工房が旭川に100くらいあるんですよ。大きな会社はなくなったけど、小さな工房が増えているんですよ。それはそうですよね、職人達が生きるためにそれぞれ仕事をするわけですから。そういう人たちは、あまり売り先がないんですよね。幸いなことにインターネットなんかで注文を受けながら、何とか家族を養うという程度のことはやっているんだけど、中々人を雇用できないという状況があります。雇用するためには、売り先を作ってやらなきゃならない。それもやろうと思っているんですよ。今回やるのは120坪くらいだから、400平米か。まぁ、これから多店舗化しようと考えていますが、そうですね、大体100坪以内でいいと思っています。固定費をあまりかけたくないんですよ。家賃が高いからねぇ。家賃が高いところでないと、あまり商売にならないし、辛いところですねぇ。お金の話から少しそれましたが、今日はこのくらいにしましょうか。

お問い合わせ

お電話でのお問い合わせ

コサインカスタマーサポートtel.0166-47-012310:00〜17:00(水曜定休)

お問い合わせフォーム

該当のお問い合わせ窓口より、
お気軽にお問い合わせください

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Recommend

私たちは、北海道・旭川で
木のものづくりをしています

  • ASAHIKAWA コサインのある街 旭川
  • ぐるりさいくる ecosine
  • DESIGNER コサイン製品のデザイナー
  • ABOUT コサインについて
  • VISION コサインが伝えたい暮らし 5つの約束
  • つながる仕合わせ 社長ブログ
  • MATERIAL 木と塗装
  • mail magazine メールマガジン 購読/解除
cosine sellection

コサイン旭川本店

〒079-8453
北海道旭川市永山北3条6丁目2-26
TEL 0166-47-0123 
FAX 0166-47-7450
営業時間:10:00~17:00 
(水曜定休・祝日の場合は営業)

コサイン青山

〒150-0001
東京都渋谷区神宮前2-5-4SEIZAN 外苑101
TEL 03-3470-7733 
FAX 03-6804-2611
営業時間:11:00~19:00 
(水曜定休・祝日の場合は営業)

page top

PHP Code Snippets Powered By : XYZScripts.com